フルメモ

怪文書置き場です

『推し』について考える

タイトル通りです。たまにはアイカツ!以外のことも書きたいな~と思って書いたらいつも以上に支離滅裂な記事になっていると思います。
この手のものを書くと大体「俺はこうだ!」とか「俺は違うよ」っていう意見が出てくるかと思いますが、まあそういう意見が見たい訳じゃないんで読んでて嫌になったらすぐにブラウザバック推奨です。

ここでの『推し』の概念はアニメや音楽等の無形の物ではなく、アイドルや声優、役者等の個人を指すものとします。



そもそも推しってなんぞや?

お・す【推す】の意味
1 人や事物を、ある地位・身分にふさわしいものとして、他に薦める。推薦する。「候補者に―・す」「優良図書に―・す」

2 あることを根拠として、他のことを判断する。推し量る。「彼の口ぶりから―・すと失敗したらしい」

3 さらに突き詰めて考える。「その点を―・していくと、問題の本質が明らかになる」

[可能]おせる

[goo国語辞典より]

だそうです。
オタクが使う『推し』は主に上記の1から転じて「他人に勧めることができるほどに好きである様」を表しているといわれています。なるほどなぁ。

ではみなさんは自分の推しを他人に勧めることができますか?もしかしたら推し被り敵視と称して他のオタクを排除してませんか??自分が推しにとって特別な存在だと思ってませんか???

まあ実際そんなことはどうでもいいんです。どこまで行ってもオタクのすることです。推し被り敵視しているオタクに「それで推しが喜ぶのか」と説教がしたいわけではありません。推しが自分にとってかけがえのない存在なら誰かに奪われたくないという感情が芽生えるのは自然なことです。推しにとっての特別になりたくてあれこれ頑張ったりするのもとても素敵なことだと思います。真っ直ぐに頑張るオタクは好感が持てます。また、声優オタクによくいる「推しを性的な目で見るオタクは許せない」のもまあ気持ちはわかります。自分の崇拝している存在を性的な目で見る人間はまあ異端ですよね。実際僕もお釈迦様やアッラーではシコりません。でもアッラーがめっちゃエロい美女だったらその限りではありません。十人十色の考えがあっていいと思うんですよ、はい。

話がだいぶ逸れてしまいましたが、僕が『推し』というものに対して色んな考えがあってもいいというのは伝わったでしょうか。それをここまでの文で伝えたかったんですよ!わかってくれ。


ここまで第一章。というか導入みたいなものです。ここからは第二章。メインシナリオです。これまでの自分、これからの自分への戒めの意味も含めて書いていきます。



やっぱりオタク活動はどこまでいっても趣味です。趣味はあくまで自分の『やりたいこと』であって『やるべきこと』ではないはずです。でもオタクって不思議とオタク活動に没頭していくと『やりたいこと』と『やるべきこと』の線引きが曖昧になっていくんですよね。

『やりたいこと』が『やるべきこと』に変わって推しを追いかけることに熱中するのって、実際すごく楽しいことだと思います。推しがやることなすことすべてがかわいくて愛しくて最早擬似的な恋愛みたいになる。
僕も少し前まで心から『推し』ていた女性声優さんがいました。他界したわけじゃないんですが敢えて過去形を使います。イベントは全部通ってたわけではないですが仕事との兼ね合いを考えてスケジュールを組んで地元から東京に出てきたり他の地方へ行ったり。イベントの度にファンレターを推敲し、ミミズがのたくったような汚い字で推しへの想いを綴りました。ライブイベントがあればオタクが企画したフラワースタンドに出資したり、時には自分で推しにお花を贈ったりもしました。この時の僕は常に「推しの為に何ができるだろうか」と考えるような我ながら痛いオタクになっていました。

ところがある日を境に自分の価値観が少し変わりました。それに至る理由までははっきりと覚えていないんですが、端的に言うとそれまでの自分を俯瞰で見る機会ができたのです。これまでひとりの推しをがむしゃらに追いかけてきた自分を客観的に振り替えって、ふと「何やってるんだろうな」って思ってしまったんですよね。自分が推しを追いかけることに知らず知らずに莫大なエネルギーを使っていたことがわかって、要は疲れてしまったんでしょうね。この疲れたというのはイベントがある度に毎度夜行バスや新幹線などでの移動による物理的な披露やイベントの券取りの精神的なストレスといったものも含まれますが、一番のところは「僕がどこまで頑張っても僕は推しにとっての特別になれない」っていうしょーもないことに気付いてしまったことです。我ながらアホらしいと思いますが、少し前の自分は本気でそうありたかったんですよね。推しがひとりの役者として大成してほしいという想いを建前に、自分は推しに何かの見返りを求めていたのです。でも推しは自分が想い描いていた理想と少しずつ異なるものをもたらしていきます。具体的に何かとは言えないのですが、熱中していたものが急に萎えてしまったのではなくて、少しずつ蓄積してモチベーションを失わせていったのです。ちょうど仕事がうまくいかなかった時期でもあって、相乗効果でストレスになっていきました。

なんだか「自分が思うようにいかなくなったからって萎えてる情けねぇ野郎の世迷い言じゃねえか!」って感じの文章に思われるかと思います。否定できません。ここまで書いておいて信じてもらえなさそうですが、今でもぼくはここで書いた声優さんのことは心から尊敬していますし胸を張って推しだと言えます。最初に挙げた「他人に勧めることができるほどに好きである」意味での推しです。

自分語りが長くなりました。
別に推しを盲信し続けることを否定したいわけじゃないんです。オタクにも色んな考え、あり方があっていいと前の章で述べましたからね。ただ、自分の趣味で疲れてしまうのはなんだか違うよなぁ、というのが現在の自分の持論です。でも疲れてしまうほどに追いかけ続けた日々もそれなりに楽しかったのは間違いないし、今の自分の糧になっています。

今の自分はここまで脇目もくれず突っ走った後の羽休めの段階にいるのかなと自己分析しています。ここから先の自分は休憩の後また推しを追いかけるのか、それとも脇道に逸れて新しい道を進むのか、どうなるかわかりません。せっかくならどう転んでも自分が楽しい道を選び続けていきたいですね。
みなさんも疲れたら時には休憩していいんですよ。自分の人生なんで誰も咎めませんし、咎める奴と無理に付き合う必要はありません。自分の信じる『推し』方をしていきましょう。